(=゚Д゚)<人間は考えることが少なければ少ないほど余計にしゃべる。
君の"愛"の力ってのはそんなものかい?
>>選択式御題 6日目

7.「たとえばそれがきみの ため」
 「・・・あの・・・」
 「・・・はぁ・・・」
 「ただの風邪・・・ですよね・・・」
 「・・・はぁ・・・」
 救急隊員はその目に非難の色を強くにじませていたが、老人がそんなことを意に介すことはもはや永遠にありえないのだった。
 「あの、困るんですよね。あなたはただの風邪でして、確かにご高齢ではありますが、それはやっぱりただの風邪でして。もちろん、時としてただの風邪をただの風邪として簡単に見過ごすわけにはいかない、というような只ならぬ事もあるにはありますが、実際、今日のこの事例においては、やっぱりあなたはただの風邪なんです。それはもう専門の医師が診るまでもなく、何らの誤診の可能性も考慮するに足らないほどに、何処まで行ってもただの風邪なんです。そのような全く──こう言っては多少失礼には当たりますが、それには目を瞑ってあえて苦言を呈するならば──くだらない理由で我々のような多忙の身を右往左往させるようなことは、やはりどうしたって怪しからん事なわけですよ」
 老人は救急隊員の頬に洟でも擦り付けてやろうかと企てたが、その行為に何らの発展性も見受けられないと考え直して、或いは慈悲の心から中止した。救急隊員は続ける。
 「あなたが我々を呼び出すということが現実にどういうことを引き起こすかお分かりでしょうか。きっとお分かりになられないのでしょうね。では簡単にお教え差し上げましょうか。良いですか、それはつまり私という、替えがたく尊い個人への侮辱なのです。救急車や医者、或いは経理的な費用の浪費といったものをご想像されたかもしれませんが、そのようなものは実際二の次でありまして、何よりも大切なのはあなたが私を愚弄したのだという猪口才な現実なのです。ほら、そこに見えますでしょう。ハンドルの上に腕を組んであくびしている運転士が。彼は全く仕事なんて出来やしないし、それは勿論救命という点についても同じであって、つまり無能なのです。わかりますか」
 老人がちらりと救急車の方に目をやると、さぁこちらを見ろと言わんばかりに窓が開け放たれていた。そこにはもう両腕を頭の後ろに回してのけぞっている男がいた。口をモゴモゴと動かしながらじっと前方を眺めている。
 「彼は私のことを殆ど、むしろ全然と言って良いほど尊敬していません。尊敬!尊敬などと!尊敬などするはずがないのです。わかりますか!ただの風邪でこの私を呼び出したあなたに!」
 老人はこの口やかましい若造に今度は痰でも引っ掛けてやろうかと企てたが、しかし無理に痰を引っ張り出そうとすれば激しく咳き込んでしまうような予感に駆られ、或いは深い愛情からそれを中止した。
 「そんなことより、さっさとわしを病院へ連れて行くがよい。そして診察し、速やかに薬を出しさえすればそれで良いのだ。いやいや、君が診察などする必要はどこにもない。そんなものは決してないんだ。そんな事は他の誰か、適切な何者かがやってのけるのだろう。君はのんびりと茶でも啜っておれば良いのだ。そういうシステムをわしらは作り上げてきたのだ」
 「そんなこと、そんなことですって。全くあなたは一体何なんでしょうか。えぇ、分かっていますとも。ただ風邪を引いただけの力のない老人です。それ以上でもそれ以下でもないのだ!」
 やれやれといった風体で老人は救急隊員を押しのけ、後ろから救急車に乗り込んだ。救急隊員も黙ってそれに付いて行き、乱暴に扉を閉めると救急車はやかましくサイレンを鳴らして走り出したのだった。
 老人は人一倍どころか百倍、千倍も利益を生み出し、税金を払い、当然医療にも貢献した。最も力を入れたと言っても良い。そんな人間が、いや、そんな人間だからこそ、ただの風邪ごときで救急車を呼ぶことも許されるべきであると老人は考えていた。お前達は卑屈な召使のように腰をかがめて、エヘラエヘラと胡麻でも擂っておれば良いのだ。むしろ救急車を呼ばれることを光栄にすら思うべきである。別にタクシーでもハイヤーでも、或いはヘリを呼んだって良かったのだ。そこをあえて救急車を選択してやったというのに、感涙するどころか、このわしを非難するとは何事であろうか。と万事がこんな具合で老人は世間の風を嘆いていた。
 結局、その日運ばれた病院ではこれといった検査も受けず、適当としか思えない触診だけを為され、これまた適当としか思えない薬を処方してもらって、老人はとぼとぼと歩いて帰途に着いた。その距離およそ15分。15分!なんと険しくも恐ろしい道程であろうか。老人は数々の難事件に遭遇しつつもこれらを全て解決し、勇気を奮ってこの地獄のような道のりを踏破した。病院でもらった胡散臭い薬を飲むと──無論、残りの薬は全てごみ箱へと運ばれた──、泥のように眠った。
 翌朝、老人はいつもより2時間も遅く起き出すと胸の痛みに気付かないわけにはいかなかった。最初は針を一本刺されたようなちくりとした痛みが襲い掛かり、やがてそれは何度も何度も執拗に訪れた。心臓に幾千の針が刺さり、剣山の態を成しているのを想像して恐ろしくなり、青ざめ、激しく咳き込んだ。全身から嫌な汗がにじみ、息を切らせながら電話に手を伸ばして助けを求めた。
 1回。
 2回。
 3回。
 ・・・。
 20回か2万回か、ともかく長い時間をかけてようやく呼び出し音は中断され、相手は応答したのだった。
 「はいはいどうも」
 「苦しいんだ。救急車を頼む、急いでな」
 「ははぁ、それは困りましたね」
 「そう、その通りだ。困っている」
 「いえね、困ったと言ってもつまりそうではないんですよ。つまりあなたの病状がどうというわけではなくですね、つまりこちらの状態が非常に困ったことでありまして。つまり実際、救急車は全て出払って今は一台たりともありませんし、帰ってくる予定さえも把握できていないという事実が目の前に突きつけられているわけです。わかりますね。これは私の手には全く負えないんですよ。良かったら助けて頂きたいほどですが、いいえしかし私がそれをあなたに求めることがいかにお門違いであるかも充分に承知していまして、そこがまた私を苦しめるわけなんですね」
 電話の向こうからため息が聞こえた。しかし老人は諦めるわけにはいかなかった。
 「良かろう、分かった。救急車は頼まん。救急車が駄目なら他のもので良いいんだ。自家用車でもタクシーでも、消防車でもヘリでも何でも良い。とにかく助けに来てくれ。胸が苦しくてたまらんのだ」
 「なるほどそうですか。しかしここにはヘリなんてものは勿論ありませんし、自家用車となると色々と面倒ごとも起こるのですよ。そうなればやはりタクシーしかありませんが、しかしこんなことは前代未聞ですよあなた。救急車の代わりにタクシーですって?全く馬鹿馬鹿しい。あってはならぬことではありませんか。しかしよろしい。他に打つ手がない以上、私も目を瞑らざるを得ないわけです。これはあなたに対する最大限の譲歩と申してもよろしいですがね。したがってタクシーは呼びましょう。しかしまたしても困ったことに、今一度言いますが、やはり前代未聞なんですよ。つまり、こんなことは後にも先にもこれ一回。ということはですね。経費が落ちる可能性が殆ど無いという事なんですよ。殆どどころか全く無いような気さえしますよ。いいえそれどころではありません。こんなことを上に報告すれば私の首が切られることも考えられるわけですよ。ともなれば私は秘密裏にこの計画を実行せねばならないわけですが、しかし私は仕事に自分の金を使うのは、ビルの屋上から飛び降りることよりも恐ろしいのです。無論、あなたの命なんて知ったことではないのですよ」
 「分かった分かった。タクシー代はわしが持つ。勿論帰りの分もわしが払うし、何ならタクシーはおろか君達にまで過剰なチップをくれてやろう。だから早く来てくれ」
 「ははあ、それは実にありがたい申し出。これは丁重にお受けいたしましょう。しかしまた困ったことがありまして、救急隊員の一人が今昼食を取りに近くのレストランに入ったんですがね──彼はいつも一人で高い店に入ろうとするんです──。財布を忘れたらしいんですよ。しかもそれを責められると今度は二度と払ってやるもんか等とゴネ始めてですね。当然店側が折れるはずもないし、また彼もその強情さから身動きが取れないわけですよ」
 「分かった分かった。昼食代などわしが払ってやるからその店に連絡しなさい。後でわしが5倍でも10倍でも払ってやる。だから早くその救急隊員を呼び戻して、タクシーに乗せてわしのところへ来てくれ。胸が苦しくてたまらんのだ」
 「わかりました。しかし別の一人にも問題があるようで。私もたった今知った事実なのですが、つまりこういうことです。彼には19歳の息子さんがいるわけなんですが、その息子さんの次の誕生日に車を買ってやろうと考えているのです。いや、それは一方的に考えているわけではなく、実は予てからの約束事ではあったのですが、その約束を果たす前に自分はタクシーを使うなどということは、父として甚だ恥さらしな行為であると考えるわけですよ。何故かと言うと、彼はまだ車を購入していないし、実はその金も貯まっていないのです。それどころか今のままではこの約束を果たすことは非常に困難な有様で、それなのに例えあなたが払うと言い張っているタクシーであっても、それに乗ることは彼にとっては息子さんへの裏切りであるし、或いは息子さんからすれば父の威厳は地にまで落ちるというものなのです。私としても、安易に彼をタクシーに乗せるわけにはいかず、かといって彼無しでは全く仕事は達成させられるはずもないわけで、分かりますか、八方塞がりなのですよ」
 「分かった分かった。その車もわしがこっそり買ってやる。その息子さんには絶対に知られないようにして、父の威厳を落とすどころか見果てぬ山にまでしてやろう。だから早くその彼もタクシーに乗せてくれ」
 「それは良い心がけです。ところがこれらはまだ大した問題ではなかったのです。また別の隊員は家のローンがあと40年もあるにもかかわらず、ギャンブルに手を出してしまって多額の負債を抱え込んでいるんですね。このままでは家族離散どころか心中すらも視野に入れなければならないわけで、そうなるともう、他人を助けることなんて念頭にはないんですよ。無論あなたの命なんて毛ほどの価値もありませんよ。そりゃそうでしょうよ。今日も彼は生命保険の冊子とずっとにらめっこですよ。見ているこっちが参ってしまいますね」
 「分かった分かった。家のローンもその他の借金もまとめてわしが肩代わりしてやる。なに、わしの財産を持ってすればそんなものは鼻くそに過ぎんのだ。だから彼にもぜひ元気を出してもらって、そしてわしを助けてくれ」
 「当然です。しかし別の一人もまた似たような問題を抱えていましてね。こちらはやくざの女を寝取ってしまったとかで、後日、指を切られるらしいのです。このご時世に素人の指など何の価値もないということは誰しもにも分かることではありますが、しかしそれはそれ、とにかくけじめが欲しいというわけなんですね。しかし彼にはそんな度胸はないし、ずっと子犬みたいにガタガタと震えるばっかりなんですよ。とはいえ私には彼を慰めてやる言葉も術もありませんし、或いはそんな義理もないわけです。しかし結果としてはあなたを助けに行くことはやはり不可能と見るしかないようですな」
 「分かった分かった。代わりにこのわしの指をくれてやる。一本といわず二本でも三本でも持っていけ。そのやくざともわしが交渉してやる。なに、わしの指一本には何十億の価値があるし、現金が欲しいと言うならそれも良い。幾らでもくれてやる事が出来るのだ。だからそんな心配は一切しなくて良いと彼に伝えて、そしてこのわしを助けに来てくれ」
 「いや全くそれは人として当然の行いです。恥じることはありませんよ、あなたは胸を張ってください。しかし私事ではあるのですが、毎日毎日こういった電話応対をこなし、そして問題のある同僚達を支えるということは想像を絶するようなストレスがありまして。支えるというほどのことは全くしちゃおりませんがね、それでも恐ろしいほどの圧力をかけてくれるのですよ彼らは。しかし誰もそれを認めようとしないどころか見くびっているような有様で。ついては私も我慢の限界なのですよ。お分かりでしょうかね。まぁあなたがお分かりになられるかどうかなどはこの際問題ではありませんがね。もういっそ投げ出してしまおうか、或いは最後に訴訟でも起こして賠償金をせしめようか考えておりまして。おっと、これは秘密ですからね。もしあなたが今言ったことを誰かにばらそうなどという事になれば、私としても黙って見過ごすわけにはいかなくなりますよ。それだけはご勘弁いただきたいですな」
 「分かった分かった。そんな事は誰にも言わないし、いいやむしろ全面的に補佐してやろう。何ならお前が望むだけの賠償金を俺が全額払ってやるし、何ならもっと良い仕事も紹介してやる。お前が望むならば今日から一生暮らしていけるだけのものを全部くれてやる。だから早くわしを助けに来てくれ」
 「はいよろこんで!」
 老人からの返事はなかった。
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