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 あるものが風紀委員長の不明をなじった。
 彼はただ英雄になりたかっただけのことであるが、その打算を見透かされるわけでもなく、ただ機械的に弾圧を受けるのだ。
 むろん、この弾圧は我々が行う。
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 風紀委員長の凱旋。
 それは支配による救済であり、元来喜ばしいものなどでは決してない。されども我々はあまりに愚かであるが故、これを歓迎し、そしてまた糾弾を企てるのである。
 この一聯の現象は予定調和なのであろうか。


 やはり私たちは――黒板消しを清掃する係――私たちの行為はその程度のもののようだ。難しく、そして易しい。


 私たちがこの組織の一員となってから、私たちの価値基準は一冊の書物によって限定されている。少なくとも、そうなるように仕組まれている。したがって私たちの観察眼と審判能力とは、風紀委員長のそれと同じであるはずなのだ。ところが彼女は、私たちが持ちえない罰則の権利と言うものを既に抱えているにもかかわらず、いや、飽き足らず、それ以上の相違を求めようとする。しかもこれは私たちにも言えることで、つまり画一的で、唯一の絶対であるところの例の書物の教えに対して、さまざまな解釈を試みようと躍起になるのである。これは発展の足がかりにも見えなくはないが、実際のところはもっと下卑な、背反ですらない猿芝居なのだ。何故私たちが、風紀委員長までもが、このような愚かしい行為に手を染めようとするのかは、以下の事情によるものである。
 つまり、この組織内の全ての人は書物を理解するだけでは真の満足を得られないから、これを遵守しようとしたり、時には反抗してみたりするのである。風紀委員長の特権も、罪人たちの行為も、書物によって生み出されたものなのだ。ところが、誰しもがそれを完全に遂行するだけの力を所持していないのである。私たちの行動の全ては、組織の外の目から見れば、書物と照らし合わせてみても常に不正にありふれているといったあんばいである。したがって、私たちは本来の役割を果たすことも、書物に働きかけることも出来ない。それどころか組織を維持することもできないという危険にさえさらされるのである。しかしそれでも、私たちにできることと言えば、出来もせぬのに書物に対する努力をひたすらに繰り返そうとすることだけだ。無論、それが久遠の徒労であることは承知しているからして、皆が皆、自らの役割について川霧に行く手を阻まれた時に類似する不安をいだき始める。風紀委員長までもが、自分は実は下っ端の書記委員か、そうでなければせいぜい生き物係ではなかったかと危惧するほどだ。つまりそうやって自分たちの行いを書物に対する解釈のやりようにまでさかのぼって取り消そうとするのである。だが、一度開始されたことはもはや取り消すことなど出来るはずも無い。その結果、私たちが半ば偶然の機会、半ば狙い済ました好機であるといった態で始めるのが、行為の意義付けである。まず最初に行うのが、この意義付けへの意義付け、その次はこの組織への介入か、或いは書物への解釈か、もしくは・・・・・・といった具合である。もはや私たちの価値基準は書物を離れ、自身から遠ざかって、より客観的であろうとする過剰な意義の存在だけが真実として規定され始める。しかし何のことはない。この組織の外の世界とて何ら変わらぬ。私たちが見ているものは全て、どこかの誰かに意義付けされたまやかしでしかないのだ。誰も彼もが解釈を捨て去り、意義付けそのものを目的としようと試みている。

 囚人の心根に巣食っているのは実は、何のことはない、取るに足らぬ一匹のヤモリである。やせ細ったヤモリは無論現実の存在であるが、それに操られた囚人たちの精神は虚偽のものだ。しかしその精神がもたらす現象が風紀委員長の眼鏡に映る時、それは現実として認識されるわけである。

 その書物は私たちの前に一人の風紀委員長をもたらした。私たちは彼女に従うことを是とされ、同時に私たちの行いが彼女を彼女たらしめる。しかし風紀を乱すものの出現によって、私たちは地獄へと追いやられた。ところで、このとき風紀委員長も地獄に踏み入ったと言うのに、それについては誰も触れようとしない。ただ、書物だけが地上で安穏と鎮座している。それについては誰も触れることが出来ない。



 私たちは風紀委員長に従った。しかしそれは、彼女に歯向かった者たちと大差のない罪をはらんでいるに違いない。ただ、鎖に繋がれずに済んでいるというだけで、ここは既に地獄なのやも知れぬのだ。風紀委員長の眼鏡が白く曇っているかのように思われるのは、むしろ私たちの眼球が腐った油で満たされているからではないのか。しかし顔を洗って状況を改める勇気を持った者が、私たちの中に一人でも居るだろうか。それ以前に、ここで綺麗な水が手に入るとは考えにくいことであるが。



 無法者は正しく処罰された。私たちは風紀委員長の正義を賞賛し、かつ無法者がかつて確かに存在し、今は私たちの知り得ぬ深く暗い牢獄に、頑強な鋼の鎖でもって拘束されているであろうという推察を嘆いた。何故なら、誰もがいつでもそこへ送られる権利を有していたし、しかもその罰を欲しているからだ。いや、それは正しくない。私たちが望むのは罰ではない。享受することではなく、かといって与えることでもない。では何か?罰が行われるという現象そのものを渇仰しているのか。いや、違う。私たちが求め、怖れ、しかも愛しているのは、風紀委員長の向こう側にある、一冊の書物なのだ。つまり、その書物の中に登場したいのである。したがって、風紀委員長の存在は煙に等しい。肺と目をちょっと撫でるだけのものだ。

 とある風紀委員長は尊敬されていたし、しかも恐れられてもいた。愛されていたことは言うまでもない。彼女の仕事はと言えば、風紀を乱す者、または乱そうとする者を端から順に、端た女がこしらえた粗雑な旅籠の隙間からこぼれ落ちる小さな芥のような出来心さえも、余すことなく微細にわたって粛正することである。時には歯向かう者や隠れようと画策する者、果てには巧妙な罠でもって彼女の立場を脅かそうなどと思いつく不埒者が現れもするのだが、しかし彼女の辣腕と眼光、何よりも全てを魅了する殆ど威圧的とさえ捉えられるほどの純粋な気品の前では、どんな謀略、狼藉も、羽をもがれて砂に埋もれた蝿に等しい。むろん、彼女の目的は民衆の支配などではなく、かしこまった静寂の世界である。
 彼女は「罰を与える権利」を持っているのだが、しかしそれは静寂の世界という目的へと至るための道具でしかなく、また誰しもにとって、罰する行為そのものは出来うる限り目にしたくないものでもある。誰かに罰を与える時、いつだって彼女は我が身を裂かれる思いなのだ。しかしこれは、いかにも奇妙なことだ。誰だって、損害を与えるものを求めるはずは無いのである。風紀委員長の行為は一見すれば正義であるが、角度を変えれば暴力でしかないのだから、民衆は本当に彼女を求めているのであろうかという疑惑は晴れない。これを払拭するために有効な手段はと言えば、人が損害を与えるものを求めないであろうという前提をひっくり返すことである。これは罰を行使する風紀委員長が皆から愛されているということからも正しいと思われる。つまり民衆は暴力を希求しているのだ。
 それよりもっと簡単なのは、彼女に粛正される側の立場に立つことだ。

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